ピアニスト/音楽博士 鈴木陶子さん
第3回 「ヘンリー・パーセルの登場」
禁欲主義を掲げた清教徒クロムウェルが政権を握っていた1649年から1660年、
イギリスの音楽文化は低迷していました。
新たな展開が始まったのは、クロムウェルの死後。
ヨーロッパ本土に亡命していたチャールズII世(Charles II 1630-1685)が迎え入れられ、
王政復古が押し進められます。
ちなみに、そのチャールズII世に嫁いだのが、のちにイギリス宮廷でお茶を飲む習慣を広める、
ポルトガルの王妃、キャサリン・オブ・ブラガンザ(Catherine of Braganza 1638-1705)です 。
当時は薬として珍重されていた、
遠く中国、日本からやってきたお茶。
既にポルトガルでは飲まれていたこの高価なお茶を、
キャサリン王妃は輿入れの際、スパイスや砂糖と共に
持ち込みます。
ポルトガルからの船旅で起こった船酔いを
解消するため、港に着くとお茶を飲み
人々を驚かせた、という話も。
のち、イギリス宮廷において、
キャサリン王妃が行なった茶会は社交の中心となり、
多くの貴婦人たちを虜にしていきます。
王政復古は時代の流れに逆行しているようにも思えるけれど、
イギリスの文化や音楽の復興と発展という意味においては、
彼らが果たした役割は大きかったとしか言いようがありません。
チャールズII世は、クロムウェルの時代に荒廃してしまった
礼拝堂の音楽を復興し、フランス・ルイ14世がヴェルサイユ
宮殿に抱えていた当時のヨーロッパ随一の弦楽集団、「王の24の
ヴァイオリン」にならって、「キングズ・バンド」を創設します。
王が食事を取る際や、王立礼拝堂で行なわれる礼拝式などで
演奏させたようですが、楽団の指導者や作曲家を
イタリアやフランスへ留学させ、水準向上にも心を配ります。
こんな変動の時代に現れたのが、
ヘンリー・パーセル(Henry Purcell ca.1659-1695)です。
イギリスが輩出した最も優秀な作曲家の一人として広く知られている
ヘンリー・パーセル。
36歳の若さでこの世を去るまでに残した曲は、
400曲以上と言われ、ジャンルも、歌曲、室内楽曲、舞台作品の挿入音楽、
室内オペラ、宮廷などの祝祭音楽、器楽曲など、とにかく幅広いのです。
ウエストミンスター寺院の近くに住んでいたパーセル一家。
一族は音楽家達を輩出した多く家系で、父も叔父も弟も音楽家でした。
父と叔父は王立礼拝堂のジェントルマンで、イギリス宮廷でも活躍し、
認められていた人物。
1664年に父親は他界しますが、代わって養育していた叔父がヘンリーの才能を見いだし、
王立礼拝堂の少年聖歌隊に抜擢されます。
ウィーン少年合唱団やリベラなど、少年合奏団の透き通った歌声は、
現代でも大変人気がありますが、当時より少年聖歌隊は寄宿制で、
生活を共にし、様々な事を学びながら、教会を中心とした音楽活動に従事します。
パーセルが所属した王立礼拝堂聖歌隊の指導者たちから、
音楽界における流行の最先端をいくイタリア、フランスの音楽スタイルや、
イギリス独自のスタイルなどを学び、音楽性を磨いていったのです。
バロック時代を代表するバッハも、オルガニスト、宮廷音楽長や教会の音楽監督など、
様々なタイプの職に就きますが、パーセルも変声期後、写譜、劇場音楽の作曲を経て、
1679年に王立礼拝堂のオルガニストに就任。
1682年には、ウエストミンスター寺院のオルガニストも兼任します。
更に1683年には王様の普段の礼拝式のための作曲家にも任命されるのですから、
宮廷で彼の音楽がどれだけ愛され、もてはやされていたのか感じずにはいられません。
彼の音楽は壮麗さと気品の中に儚さを感じさせる
繊細さを感じます。
特に叶わぬ切ない恋心などを語る歌などは、
その歌詞を最大限に表現する、
メロディーラインや伴奏で、人物の心情を絶妙に
描写し、聴き手の心を揺さぶります。
器楽曲も、フランス宮廷文化を色濃く反映した、
舞曲を基とする洗練されたリズムで彩られ、
当時の宮廷の暮らしぶりを垣間見るようです。
華麗さだけでなく、哀愁も感じさせるその音の響きは、
深まりゆく秋にぴったり。
機会があれば、お気に入りの紅茶を入れて、
古楽器で演奏される、
パーセルの音楽に耳を傾けてみてください。
お茶が広まり始めた当時のイギリス宮廷の気分が
味わえるかも知れません。
参考文献:西原稔:『クラシックでわかる世界史』アルテスパブリッシング、2007;
Bonds, Mark Evan: A History of Music in Western Culture, Prentice Hall Inc., 2003; Palisca, Claude V.: Baroque Music, 3rd ed., Prentice Hall Inc., 1991; Scholes, Percy A. : "Henry Purcell--A Sketch of a Busy Life." In The Musical Quarterly, vol.2, no.3, Jul., 1916. 442-464.