ピアニスト/音楽博士  鈴木陶子さん
第5回 「音楽の父」と「音楽の母」

18世紀を目前にしたバロック時代全盛期の1685年、現ドイツのザクセンで、
私たちに「音楽の父」「音楽の母」として慕われる偉大な作曲家達が誕生します。
それが、ヨハン・セバスチャン・バッハ(Johann Sebastian Bach:1685-1750)と、
ゲオルグ・フリードリヒ・ヘンデル(Georg Friedrich Händel:1685-1759)です。
どうして、イギリスにまつわる音楽のお話にドイツ人が???
生涯、故郷ザクセンから出ることはなかったバッハ。
一方ヘンデルはイタリアを経てイギリスへ渡り、そこで人生の2/3を過ごし、
最終的にはイギリスに帰化し、イギリスを代表する作曲家と数えられるほど、
イギリスとは縁の深い人物となります。
生きている間、直接出会うことはなかったバッハとヘンデル。
比較的近くに生まれ、同時代を生きているにも関わらず、音楽も人生も対照的。
人生の大半を教会音楽に捧げたと言っても過言でないバッハ。
宗教曲だけでなく世俗曲も残していますが、オペラだけは書いていません。
一方、若くしてオペラで成功、本場イタリアにも渡り研修を積み、
後に教会音楽であるオラトリオにもオペラ的な要素を取り入れ、
民衆の心をも掴む美しいメロディーに溢れる音楽で大ヒットさせるヘンデル。
ドイツに居ながらも他の国で流行ったスタイルを知っていたものの、
当時はあくまでローカルな音楽家であったバッハと、
多分、当時のヨーロッパで一番有名な音楽家の1人であった国際派のヘンデル。
そんな対照的な二人だから、比べてみると非常に面白いのです。


[写真:左がバッハ、右がヘンデル]

二人の境遇も最初から対照的。
宗教改革を起こしたルターが隠棲しながら新約聖書のドイツ語訳にいそしんだ、
アイゼナハという町のルター派音楽家の家庭に生まれたバッハ。
職業音楽家になることはごく自然な流れだったのです。
地元のラテン学校で一般的な人文学や神学、歌を学びつつ、
父からはヴァイオリンや鍵盤楽器の手ほどきを受けたと思われます。
10歳で父親が他界した後は、彼を引き取った兄クリストフのもと、
鍵盤楽器を学び、当時流行していた音楽や先人達の音楽にも出会います。
「お前にはまだ早い」と兄が見せてくれなかった、
パッヘルベルや、フローベルガーの曲集を兄の眼を盗み、
夜な夜な月明かりを頼りに半年もかけて写譜したという話も。
結局、完成後すぐに兄に見つかり、取り上げられてしまい、
兄が亡くなるまで、手元に置くことは出来なかったのですが、、、、。
そんなバッハは15歳になると、リューネブルグの聖ミカエル教会の
合唱隊の隊員として採用され、給付生として聖ミカエル学校で学びます。


[写真:ルターが擁護され、新約聖書のドイツ語訳を書いていたヴァルトブルク城]

一方、ヘンデルは、音楽とはかけ離れた「理髪・外科医」の息子。
将来は弁護士に・・・そう考えていたのに、幼いヘンデルは音楽への興味を見せ始める。
すると父は怒り、家に楽器を置くことも、楽器がある家を訪れることさえも禁止。
しかし、どうやったのか、幼いヘンデルはクラヴィコードを手に入れ、
屋根裏部屋に押し込み、家族が寝静まった夜になるとそこへ忍び込んで練習。
義兄弟が働く宮廷を訪れた際、教会のオルガンを弾いていたのをたまたま領主が聴き、
その非凡な才能に驚き、
「この若き天才が音楽の勉強を許されないというのは、
 民衆や我々の子孫に対する犯罪だ!」
と言及したところから音楽の勉強を続けられるようになったのです。


[写真:ルターが擁護され、新約聖書のドイツ語訳を書いていたヴァルトブルク城]

音楽で生計を立てるというのは、今も昔もある意味で不安定なものです。
今でこそ偉大な作曲家だと呼ばれ、神のように崇められる存在であっても、
良き職を得るためになかなかの苦労を強いられています。
彼らの伝記を読むと、今の人にも共通する「悩み」があちこちに見られ、
とても共感を覚えます。
バッハは1703年、ザクセン=ワイマール公弟ヨハン・エルンストの
宮廷楽師になるも、半年後にはアルンシュタットの新教会オルガニストに。
1707年にミュールハウゼンの聖ブラジウス教会オルガニスト、
翌年1708年にはザクセン=ワイマール公の宮廷オルガニスト兼宮廷楽師。
1717年、アンハルト=ケーテン侯の宮廷楽長に任命され、
ここでブランデンブルク協奏曲を含む多くの器楽曲を作曲します。
1722年ライプツィッヒの有名な聖トーマス教会のカントルであった、
ヨハン・クーナウが亡くなり、後任が必要となり、
最終的にバッハがその職に任命されることになるのですが、
人事を決める市参事会が一番に招聘したかった音楽家はバッハではなく、
一番は当時ハンブルクの教会音楽監督であったゲオルグ・フィーリプ・テレマンで、
そのテレマンがラテン語を教えることを拒否し、オファーを断ったため決まらず、
次に枠を広げて選出された8名のうちの一人にすぎなかったというから驚きです。
結局バッハに決まったのも、彼が教理問答とラテン文法の授業を
担当することに同意をしたからだとか。
聖トマス教会のカントル兼ライプツィッヒ市音楽監督に就任したのが38歳。
作曲、教会における演奏、合唱の指導、学生の演奏団体の指揮、
その他の副業をこなしつつ、亡くなるまでの27年間に
300曲近いカンタータを教会のために書いたというのだから、
日本人も驚くほどのワーカホリックだったのかも・・・
正直者で頑固で不器用。教育熱心で職人気質。
上司に嘆願書を出してトラブルを起こしたり、
血気盛んな若かりし頃は合唱団の学生たちと乱闘事件を起こしたりと、
人間臭い一面も垣間見せるバッハなのです。


[写真:夕暮れ時の聖トマス教会]

一方ヘンデルはなかなかの破天荒ぶりを見せてくれます。
1702年、ハレ大学で法律を勉強を始めますが、すぐにハレの教会オルガニストに就任、
1年後の1703年にはオペラが盛んなハンブルグに移住し、オペラのヴァイオリニスト、
ハープシコード奏者、そしてオペラの作曲家として売れっ子に。
1706年から1710年までローマ、ヴェネチア、ナポリなど、イタリア各地を旅し、
世俗カンタータを書いたり、モテット、オペラ、器楽曲など書きます。
同時にイタリア音楽界の重鎮たちと知り合い、流行の最先端にある音楽を聴き、
様々なスタイルを学び、見聞を広め、ドイツ人であったヘンデルは、
イタリアを去る頃にはすっかりイタリア人らしい音楽が書ける作曲家へと
成長を遂げていたのです。
イタリア滞在はヘンデルに高貴な身分の人達への人脈を築くチャンスも与えます。
滞在中のヴェニスでハノーファー選帝侯の弟であるアーネスト王子に出会い、
ハノーファー宮廷に推薦され、同時にヴェニスで英国大使を務めていた、
マンチェスター侯爵に英国への招待も受けます。
1710年、自由に旅する事を認めてくれたハノーファー選帝侯の宮廷楽長に就任。
しかし、すぐに1年の休暇を取ってロンドンへ渡りオペラを含む様々な作品を書き、
大成功を収めます。
1712年、再びロンドンへ。 美食家で、モーニングティーの習慣も始め、
紅茶愛好家ならお馴染みのアン王女から委嘱された曲を次々と作曲。
このアン王女が統治した時代、ロンドンの音楽事情が新たな発展を迎えた時代で、
イタリア人歌手たちがどんどん人気を博し始めた時期でもありました。
ヘンデルは今がチャンスだ!と思ったのか、その年、
ハノーファーの宮廷楽長の地位はそのまま、イギリスに定住することを決意。
半ば中途半端に放ったらかしにしたハノーファーの仕事。
アン王女の死後、ジョージ1世として英国皇帝の座についたのが、
そのハノーファー選帝侯なのだから、人生皮肉なものです。
ジョージ1世によく思われていなかったヘンデルは宮廷から一旦遠ざけられましたが、
王の不興を鎮めるため「水上の音楽」を書き、その曲をもって王と和解した、
という史実的根拠のない逸話まで残されています。
ヘンデルはロンドンで人生における頂点もどん底を味わいます。
ヘンデルのイギリス奮闘記はまた次回、お話を続けたいと思います。

参考文献:
Steven Isserlis “Why Handel Waggled His Wig” (London:faber and faber, 2006)
K.Marie Stolba “The Development of Western Music: A History” (Madison:Brown&Benchmark Publishers, 1995)
三枝成省彰(2009)「大作曲家たちの履歴書(上)」中央公論新社
樋口隆一(1985)「バッハーカラー版作曲家の生涯」(株)新潮社
皆川達夫(1972)「バロック音楽」(株)講談社
写真:Wikipedia Commonsより

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