ピアニスト/音楽博士 鈴木陶子さん
第7回 「鹿児島で発見 ! 薩摩とイギリスの意外な音楽的関係 !」

ご無沙汰しております。
久方ぶりの更新に、前回の続きでヘンデルの「メサイア」について書くつもりだったのですが、
仕事で訪れた鹿児島で、たまたま訪ねた「維新ふるさと館」で、
これまで全く聞いた事が無かった、近代日本音楽史の裏話のような面白い発見がたくさんあって、
その上、それにはイギリスに深く関わる、ある人物の存在が大きく関わっていた事を知り、
なおさら興味が湧いて、今回はこのお話を書こうと決めたのでした。
その発見とは、、、

日本の国歌「君が代」に原曲があったこと。
その原曲のメロディーを作った人物こそ、日本の吹奏楽の原点を作り、
日本の西洋音楽発展の礎を築いた1人である、アイルランド出身のイギリス軍楽隊長だったこと !
日本は吹奏楽が盛んな国です。
明治時代、日本の教育に西洋音楽が取り入れられる過程に、
アメリカやドイツの外国人教師や音楽家の貢献があった事は知っていたものの、
日本の吹奏楽の発展に貢献した人物がイギリスと深く関わりのある人だとは知らなかったので、
私にとって驚きの新事実でした。

それにしても、薩英戦争まで起こし、敵対関係にありそうなイギリスと薩摩藩なのに、
どうして深い関わり合いを持つようになったのか?
なぜ、イギリス軍楽隊長が日本の国歌を書くに至ったのか。
日本史の教科書には出てこないストーリーに心躍りました。

まずは薩摩とイギリスの関係を紐解くところから始めましょう。

幕末、薩英戦争が起こったのを覚えていらっしゃいますか?
事の発端は文久2年(1862年)、横浜港付近の生麦村で起こった「生麦事件」。
薩摩藩の大名行列の進行を乱したイギリス人たちを薩摩藩士が殺傷してしまいます。
幕府が高額な賠償金を払ったのにも関わらず、
イギリスは犯人逮捕と処罰、そして被害者妻子らに対する養育料を更に要求。
イギリス軍は薩摩藩との直接交渉に乗り出し、7隻の艦隊を横浜から鹿児島湾に、
更に鹿児島城近くの浜まで艦隊を進めるのです。
交渉は双方の思うようには進まず、イギリス軍は要求が受け入れられない場合は武力行使に出ると通告。
とうとう薩摩汽船3隻を掠奪、これに激発した薩摩藩は砲台で応戦、 戦闘に至ってしまったのです。
(Wi kipedia「薩英戦争」参照)

この戦争は双方に多大な損害を与えるものでしたが、薩摩藩はこの戦いを通して、
単に尊王攘夷だけを唱えているだけでは、全く太刀打ちできないと悟ったのです。

それからの薩摩藩の行動が素晴らしい。
まだ徳川幕府の時代、外国へ渡航する事が国禁とされていた1865年4月、
「薩摩スチューデント」と呼ばれる若き志士たちをイギリスにいち早く留学させます。
そのうちの1人が現在放送中の朝の連続テレビ小説で
主人公を支える同志のような存在として度々登場する大実業家五代友厚です。
この時、五代友厚と一緒に海を渡った若き薩摩藩士は総勢19名。
彼らは世界を広く見聞し、様々な分野で日本の近代化に貢献する事になります。

維新後の明治2年(1869年)、薩摩藩はいち早く軍楽隊を編成し、伝習生30名を当時横浜に駐屯していた英国軍楽隊長
ジョン・ウィリアム・フェントン(John William Fenton: 1828-1890)の元で学ばせます。
フェントンは日本における最初の吹奏楽団指揮者であり、これが日本の洋楽導入の始まりで、
日本における吹奏楽の発祥と位置付けられることになります。
また、フェントンはその貢献から日本における「吹奏楽の父」とも称されているのですが、
彼こそが国歌の制定に大きく貢献するのです。

明治維新後、国旗や国歌の制定が必要となったわけは、
友好関係にある外国艦船などが入港した時に執り行う儀礼式で、
国旗を掲揚し、国歌を演奏するのが慣わしだったから。
しかし、明治維新直後の日本は、まだ国旗も国歌も無い状態。
いち早く外国との交流を始めていた島津家28代藩主島津斉彬が新政府に
「日の丸」を「日本総船の船印」とするよう建言、見本を作って提示。
これが水戸の徳川斉昭の支持を得て、制定されることに。
国歌はというと、フェントンが「日本に国歌はないのか? 歌詞があれば、曲をつけよう。」と建言。
薩摩出身の陸軍軍人で政治家だった大山巌らが
薩摩琵琶曲の1つ「蓬莱山(ほうらいさん)」から「君が代」の1節を取り、フェントンに託しました。

フェントン作のメロディーで歌われた「君が代」は明治3年(1870年)、
薩摩軍楽隊によって明治天皇の御前で披露されました。
このエピソードやフェントンが作ったオリジナルの「君が代」は、
鹿児島市内にある「維新ふるさと館」にて視聴する事が出来ます。
私もそこで初めて耳にして、その新鮮さに驚きました。
最初の印象は「カッコいい。」西洋風だけれども、荘厳で凛々しさも兼ね備え、趣きがある。
但し、それは西洋音楽に普段から慣れ親しんでいる私たちが感じること。
それとは全く異なる日本の旋律だけを聴いて育った当時の人々にとっては、さぞかし違和感があったろうと思います。
ましてや、そのメロディーが薩摩琵琶曲の1つに由来するものとあらば尚更のこと。
歌詞と洋風メロディーの違和感が各所から指摘され、結局明治13年(1880年)に現在の「君が代」へと改定されます。

現在、テレビドラマで何かと幕末から明治維新、
近代国家日本として発展していく時代に新しい産業を起こしたり、
新たな分野を開拓していくエネルギッシュな人々の人生を描いた作品が目につきます。
何事にも「始まり」があるわけですが、明治維新後、
新しい国家の形成に全力で邁進し、貢献した偉大な人々の話を聞くと、その凄さに圧倒される訳ですが、
このフェントンのようにそれを支えた多くの外国人がいた事も忘れてはならないと感じました。

最後に「君が代」の中に登場する「さざれ石」。
いつもこの「さざれ石」とはどういうものなんだろうと疑問がありましたが、
その「さざれ石」が霧島神宮前に記念碑と共に置かれていました。

石灰石が雨水に溶け出し、その石灰分を含んだ水が時に乳状体となり、
地下で長い時間をかけて小石を作る。
それが何千年、何万年かけ集結し、次第に大きくなる。
その塊が時として地上に現れることもある。
時間の経過と共に、その塊が巌となり、苔まで生えるようになる。
そんな時まで…

この詩から新しい時代の息吹きも感じられるし、
それまでの長い日本の歴史を礎に、永遠の繁栄を願った壮大な詩のようにも感じられる。
当時の人々がどのような思いや決意でこの1節を選んだのか、色々感じられるところがあって、
感慨深い気持ちになりました。
そんな歌詞に、フェントンはどんな願いを込めてメロディーを付けたのでしょうか。
西洋の国歌は人々を鼓舞するような勇ましいものが多いのに、
フェントンの旋律は平和的で穏やかで、彼の日本に対する愛情や友好的な気持ちを感じずに入られません。
機会があれば、ぜひフェントン作の「君が代」もお聴きくださいね。

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