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ピアニスト/音楽博士  鈴木陶子さん
第6回 「ヘンデルのオペラ奮闘記」

ドイツ生まれのジョージ・フレドリック・ヘンデル(1685-1762)。
現在のドイツ北部・ニーダーザクセン州にあったハノーファー王国で、
選帝候の宮廷楽長に就任しながらも、すぐに長期の休暇を取り、イギリスの大都市、
ロンドンに渡ってイタリア・オペラで成功を収めます。
オペラがオフシーズンに入るとしばらくハノーファー宮廷に戻るも、また「適当な時期には戻る」と、
ハノーファーの職を維持したまま、再度イギリスに渡り、結局、ロンドンに定住し、帰化してしまいます。
その直後、雇い主であったハノーファー選帝候が英国王の座に着いたから、
ヘンデルはさぞかし居心地の悪い思いをしたのだろうと思っていたら、
実はこのハノーファー選帝侯がヘンデルに外交官としての役割を期待し、
自由に渡英させていたとする説が有力だと語る専門家までいることが判明。
オペラ作曲家として活躍することを夢見ていたヘンデル。
イタリア修行中に、ロンドンで本場のイタリア・オペラを待望する声が
高まっていると聞き、大都市ロンドンを自分の拠点にと見据え、
「次期イギリス王となるハノーファー選帝候に仕えておけば、
コネクションも出来るし、きっと自分のキャリアにプラスになる」
と、ハノーファー宮廷での職に従事することを決断したとも。。。
ヘンデル、1度目の渡英が1710年で、そのまま8ヶ月滞在。
オペラのシーズン終了後、一旦ハノーファーに戻るも、1712年に再度渡英。
この選帝侯がジョージ1世としてイギリスで王位を継承したのが1714年。
ヘンデルが怒るジョージ1世をご機嫌を取るため「水上の音楽」を書いた、 とするのは事実でない作り話のようですが、
主従関係が絶対の社会において、 ヘンデルの奔放な行動ぶりに様々な憶測が飛び交うのも無理はありません。

(若かりし頃のヘンデル)

思えば、ヘンデルは幼い頃より決断力、行動力、実行力に長けていました。
9歳の頃、父親が勤務する宮廷を見てみたいとせがみ、拒否されると、
馬車で向かう父の後を徒歩で追いかけ、父親を根負けさせてみたり、
18歳でハレ大学での法律の勉強にさっさと見切りをつけ、 大好きな音楽の道で生きていくことを決断。
自分は劇場音楽を書いていきたいと思ったから、小さな町ハレから、
オペラや市民の音楽活動も盛んな北ドイツの商業都市ハンブルクに移り、
オペラの本場イタリアで勉強した方が良いと聞くと、独立心旺盛な彼は、
パトロンになり得る有力貴族からの援助も断り、自費でイタリアへ赴き、
フィレンツェ、ヴェニス、ナポリ、そしてローマと主要都市で研鑽を積み、
イタリアの伝統と最新のスタイルを吸収し、自分の技術を磨きます。
当時、経済活動が活発で、繁栄を極めていた大都市ロンドンに焦点を定め、
着実にチャンスを狙っていたと考えると、そのしたたかさが頼もしくも感じられます。
しかしこのヘンデルにしても、全てが順風満帆という訳ではありませんでした。

1719年、ヘンデルはロンドンでイタリア・オペラを常時公演するために設立された、
「ロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージック」に今の音楽監督に相当する、
給付付きオーケストラ楽長として雇われます。
このロイヤル・アカデミーは国王の庇護のもと、資本金1万ポンドを目標に、
1口200ポンドの出資を募り、25%の配当金を見込む株式会社だったとか。
取締役達が目指したのが、ロンドンに本場の優秀な歌手、作曲家、台本作家、
器楽奏者を集め、ヨーロッパ屈指のオペラ上演地にすることでした。
ヘンデルの役割は単に楽曲を提供するだけには留まらず、ヨーロッパ本土から
人気歌手をリクルートし、契約してくることだったというから大変。
この時代、歌手の地位はオペラ事業に関わる誰よりも高かったそうで、
有名歌手、それも本場イタリア出身で人気の歌手ともなると、さらに倍増。
その上、台本が気に入らなかったり、自分の一番の見せ場となるアリアに
派手さが足りないと思ったら、脚本家や作曲家に書き換えや歌の差し替えを
当然のように要求したというから驚きです。
これでは音楽とストーリーとの一貫性やオペラとしてのドラマを第一に考える
ヘンデルと意見が合わないのは当然。いつもかなりのバトルとなりました。

(犬猿の仲であった2人のプリマ、Faustina BordoriとFrancesca Cuzzoni)

極めつけがライバル同士の2人のプリマを1つの演目に出演させた時の話。
配役の重要性や歌の見せ場もできるだけ平等になるように気を遣っても、
お互いの贔屓の客たちがライバル歌手の演技中、野次を飛ばし合い、
オペラが続けられない状態となり、台無しにされる事件まで勃発。
また別の日には、王族の臨席にも関わらず、プリマの2人がとうとう舞台上で
大げんかを始めたこともあったようだからヘンデルの苦労は計り知れません。
ヘンデルはやがてまだ才能が開花していない、若手の歌手を雇い、
自ら訓練して、優秀な歌手に育て上げるようになります。

作曲家としても試練がありました。
ロイヤル・アカデミーはヘンデル以外にも数名作曲家を雇っていたので、
その覇権争いにも巻き込まれることに。
時には1つのオペラで、1幕ごとに作曲家を替えさせて、
出来を競わせることを目玉とした公演もありました。
脚本家との相性、派閥の問題、好きな事とはいえ、かなりの重責です。
派閥の問題は内部に限ったことではなく、当時、社交と政治の場でもあった
オペラの劇場においては、敵対するグループの一方が贔屓にすると、
他方がそっぽ向くという状況となり、集客にも大きく左右することに。。。

1928年、アカデミーのイタリア・オペラ上演にさらなる追い打ちが。
作曲家ペープシュ(Johann Christoph Pepusch, 1667-1752)と、
劇作家ゲイ(John Gay, 1685-1732)が「ベガーズ・オペラ(乞食オペラ)」という、
台詞が英語で書かれたバラッド・オペラが初演されます。
台本は当時の社会、政治、文化を痛烈に批判し、特に上流階級が熱を上げる、
イタリア・オペラを皮肉った内容。これが市民の絶大な支持を集めます。

もともと一般市民にはイタリア・オペラに馴染めない点が幾つかありました。
イタリア・オペラは全幕イタリア語で上演されますが、イギリス市民は、
イタリア語が理解できないから、舞台上で何が起こっているのか分からない。
会話の部分は、レチタティーヴォという言葉に節回しを付けて歌われるから、何となく奇妙だし、不自然。
歌手に至っては、今のカウンターテナーや、メゾ・ソプラノのような声を持つ、
カストラートと呼ばれる男性歌手が主役級で登場しますが、どうもその声に違和感を覚える、、、。
加えてイタリア・オペラの題材は堅苦しい歴史上の英雄や神々の話。
馴染みがないことばかりです。

(ベガーズ・オペラのシーンより)

ベガーズ・オペラは取り上げた題材が下層階級に暮らす人々で、
自分たちの不満や鬱憤を代弁するような言葉もちりばめられていて、
会話はイタリア・オペラのような不自然なものではなく演劇スタイル。
音楽も多くが馴染みのあるメロディーに別の歌詞を置き換えたもので、
その分かりやすさと馴染みやすさが聴衆の心を捉え大成功を収めます。
元々、イタリア・オペラをイギリスでも上演したいと考えたのは、
見聞を広めるためにヨーロッパ本土を旅した上流階級の人々。
一般市民との感覚の差は無理もありません。
ジョージ1世に、むこう21年間のオペラ上演の権利と年1000ポンドの
助成金の約束を取り付けて始められたロイヤル・アカデミーでしたが、
結局、第1期は9シーズンで幕が下ろされました。

オペラ公演はこのように様々な困難の連続であったように見受けられますが、
それでもひとつずつ、名声を高め、1720年代には王室も一般市民も、
誰もがオペラ作曲家として認める存在へと成長していたヘンデル。
結果、1727年、イギリスに帰化するという道を選んでいました。
イギリス市民になったから、一定の名声も得たし、財も成したからといって、
ヘンデルの奮闘が終わった訳ではありません。脳卒中に倒れることがあったり、
他のオペラ・カンパニーとの競い合いも続きますが、「オラトリオ」という、
教会版オペラのような演目(但し、派手な舞台装置や衣装、演技はない)に
新たな可能性を見いだしていきます。

元々教会のみで上演されたオラトリオ、宗教的、道徳的題材を取り上げ、
独唱、二重唱、そして合唱と管弦楽を使う大規模な叙事的楽曲。
イタリア・オペラとの大きな違いはテキストが英語で書かれているということ。
宗教的な内容が教会以外の場所で上演されることに当初は教会からの反発にも
ありましたが、そこはヘンデル、「戴冠式のようなスタイルで演奏」ということで
問題をクリアー。ヘンデルの多声音楽の響きの美しさが、合唱好きの
イギリス人の心を捉え、代表作『メサイア』へと繋がっていくのです。
この「メサイア」については、また次の機会に。

Steven Isserlis “Why Handel Waggled His Wig” (London:faber and faber, 2006)
K.Marie Stolba “The Development of Western Music: A History” (Madison:Brown&Benchmark Publishers, 1995)
美澤寿喜(2007)「作曲家◎人と作品シリーズ ヘンデル」音楽之友社
皆川達夫(1972)「バロック音楽」(株)講談社

写真:Wikipedia Commonsより

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