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S*STYLE TEA 京都校講師 ティーライフスタイリスト  砂川愛子さん
第4回 「日本が拓き台湾が育んだ台湾紅茶」

「台湾紅茶の父」と呼ばれる日本人がいる!
私にとっては寝耳に水のお話でした。
台湾で紅茶が作られていることは知っていましたが、台湾紅茶の父なのに日本人?
考えれば考えるほど興味が湧いてきて、かつて台湾で紅茶を作った日本人の足跡と
現在の台湾紅茶をこの目で見るべく台湾へと旅立ちました。

「台湾紅茶の父」と呼ばれる新井耕吉郎さんは日本統治下の台湾で技師として紅茶の栽培に尽力し、
現在の台湾紅茶の礎を築いたと言われています。
台南から車で1時間、台湾を代表する景勝地である日月潭の
海抜800m地帯に広がる茶畑にはアッサム種の茶樹が植えられていました。
中国を原産とする茶樹がほとんどの台湾で、なぜインド原産の茶樹が植わっているのでしょう?

日本が台湾を統治していた時代、緑茶や烏龍茶は日本から欧米への主力な輸出品でした。
しかしイギリスがインドにアッサムのプランテーションを成功させたのを機に、
世界的な茶の需要は緑茶や烏龍茶から紅茶へとシフトする転換期を迎えました。
そこで日本政府は世界に通じる茶を作るべく温暖な台湾で紅茶を生産することを決めました。

新井耕吉郎さんは日月潭が海抜や土壌などの地理的環境や気候において
紅茶の栽培に適していると確信し「魚池紅茶試験支所を」設立しました。
そして太平洋戦争下の過酷な状況でインドからアッサム種を輸入して栽培し、
品種改良をすすめ台湾独自の紅茶を作り台湾の紅茶産業の発展に大いに寄与しました。

台湾に到着してまず訪れたのは台湾北部にある紅茶工場の「大渓老茶廠」。
この工場の前身は日本統治時代に三井合名会社(現在の三井農林)が建てた「角板山工場」で、
台湾で最初に紅茶が生産された工場です。

「角板山工場」の建築様式は台日英式と言われ、
高い天井は英国式、通気構造は日本式、そしてモルタルの床は台湾式などと
各国の良いところをミックスした工場と言われています。

「角板山工場」で最初に作られた紅茶は「合名茶」という名で海外に輸出され、
ロンドンで「甘く繊細な香りが優雅である」と有名になり
ダージリン・ウバ・キーマンと並び四大銘茶であると称されるほどでした。
1933年には私たちにもなじみの深い「日東紅茶」の名でブランドを設立。
全盛期には台湾紅茶の生産と海外輸出をほぼ独占し、 その品質の高さから「黒い金」と呼ばれたそうです。
日本が台湾を統治していた時代のお話です。

日本の統治が終わると台湾政府が工場を管理するようになりましたが、
紅茶の輸出は下火になり1990年代には工場を閉鎖してしまいます。
しかし2010年に古い工場を美しく改装し「大渓老茶廠」と名を改めます。
台湾紅茶復興の想いと有機栽培の理念のもとに農薬を使用しない土を作ることから始め、
2014年からは少しずつですが有機紅茶の生産を始めています。

次に訪れたのが台湾中部日月潭にある「日月老茶廠」。
こちらも日本統治時代に三井農林が所有していた紅茶工場です。

現オーナーは台湾人女性で台湾で最初に無農薬栽培の紅茶を作った方だと伺いました。
こちらも「大渓老茶廠」と同じく無農薬にこだわり、
土づくりから紅茶を作る工程まで徹底して管理されています。

本統治時代に持ち込まれたアッサム種を品種改良した台茶8号、
紅玉紅茶と呼ばれ台湾紅茶の代表ともいわれる台茶18号
そして2008年に誕生した希少な台茶21号といった
質の高い紅茶が有機栽培で生産されていました。

このように需要の低下や価格競争で一度は生産量が減少した台湾紅茶ですが、
今またその存在が見直され、品種改良が重ねられ
良い生産者のもとで質の良い紅茶が作られているようです。
ただ質の良い茶葉で作られた台湾紅茶は生産量が限られるうえに高価で、
海外に輸出することはおろか台湾国内での需要を賄うにも十分ではないそうで、
まだまだ海外での知名度は低いようです。

熟したフルーツのような、また爽やかな草のような複雑な香りを持ち、
渋みがなく喉をするりと滑るなめらかな味わいの台湾紅茶。
甘い香りとほっとするような優しい味わいは多くの日本人が美味しいと感じるでしょう。
台湾に行かれた際には「日本人が拓き台湾人が育んだ台湾紅茶」ぜひ一度飲んでみてはいかがでしょうか。

[写真 大向ヒロマサ]

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